私のスローライフ(上田幸雄)

2013年04月01日(月)
私のスローライフ
上田 幸雄 (昭和30年卒)
はじめに
平成8年(1996)に大阪大学を退職して17年、続いて教鞭をとった近畿大学を辞めて、丸十年が経ちました。近畿大学を退職してからは憧れていた趣味、絵画とゴルフを友にスローライフを気の向くままに送ってきました。その頃から、年末に私の研究室の卒業生に私の1年間の生活情報をメールで送っております。それも10枚になりました。
この度、庚子造船会から 「先生方から」に投稿するようにと要請を受けました。ここ10年ほどの私の生活情報から抜粋して、最近の生活をお伝えしようかと思いました。
 
上田研会
阪大を退職した時、[先生も気楽に話せる相手もいないだろうから淋しかろう]と、上田研の卒業生が忘年会で集まるように企画してくれました。丁度、溶接工学研究所の所長をしていた時に、柿木令子さんという美人の秘書がいまして、研究所内でも評判でしたが、彼女のお母さんが役員をしていた道頓堀の「くいだおれ」で集まることになりました。勿論、お母さんも美人ですし、宴会の度に種々特別の配慮をしていただきました。 時々 テレビでも出てくる “くいだおれ太郎” のお母さんです。忘年会の正式名称は 「上田研会」で今も続いています。幹事は平成22年まで正岡孝治君が務めてくれましたが、彼の急死以後、麻寧緒君が引き受けてくれています。
もともと、若い卒業生が正月の帰省の途中で寄っていけるようにと年末開催を考えたのですが、今は退職した人も多くなりました。E-mail だけの連絡網ですので、だんだんアドレス帳も歯抜けになりつつあります。
 
ゴルフ
スローライフの生活軸の一つにゴルフを選んだのは、体を動かすための動機付けもありましたが、下手な自分もやれば上手くなるだろうという期待があったからでした。冨田先生や友人の励ましもあって、それから、週1回の練習と月2回のコースを回りました。これも才能と体力がないとなかなか上手にならないことが判ってきました。平成18年夏前には、最終ホールで1メートルのパーパットを沈めて 1ラウンドを89で回りました。90を切ったのはその時が初めで最後でした。その頃は、大体95前後で回ることができるようになっていましたので、それなりに楽しめるようになっていましたが、それ以上の進歩は無理でした。加齢と共に筋力が衰えてきて、100もなかなか切れなくなってきました。そして、平成20年脊柱管狭窄症の影響で、10分も歩くと左脚がしびれるようになり、ゴルフを中止しました。
 
油絵
もともと絵を描くのは好きな方でしたので、屋内趣味として迷わずに油絵を選びました。
油絵もゴルフと同じように、ちょっと勉強すれば、もう少しましな絵が描けるようになるのではという甘い自信のようなものに誘惑されて、近所のアトリエに通い始めました。アトリエでは、生徒が何年か経ち少し上手になると、個展を開く慣わしがありました。
アトリエの励ましもあり平成22年の1月に私の喜寿を記念して油絵の個展を大阪・道頓堀のギャラリー「香」で開きました。我が家では 私の絵は余り評価されず、物置に収納していました。それらの絵を衆目に曝す初めての個展でしたが、多くの方から個展と私の喜寿を合わせたお祝いと励ましを頂きめでたく終了しました。
親しい方と一緒に私の絵を見る機会も初めてだったり、平生なかなか お会いできない方にもお越しいただけたり、また 何十年ぶりかの再会を果たした幼馴染もいました。大変思い出多い記念の個展となりました。
 
Narcissus (SM)
 Painted by Yukio Ueda (2012)

      2012年のクリスマスカードは、こちらをクリック


<編集者注:先生の素晴らしい絵の数々は、Kシニアに、”70歳からの手習いの絵”として2010年2月から10月にかけて6回にわたり公開されています(http://kansai-senior.sumomo.ne.jp/gallery/index-2010.html)。是非ご覧下さい。>


外国出張
近大を辞める頃には、実質的に研究から離れていましたので、学会活動としての外国出張は随分減りました。それでも、毎年1度くらいの割合で外国に出て行く機会が与えられました。そんな外国出張は、スローライフも終焉に向かうだけの単純な生活においては、所々で彩ってくれる嬉しいイヴェントでした。
平成16年5月に 中国の西安交通大学大学院創設20周年記念祝賀式で、”21世紀に始まった日本の大学改革” を講演してきました。少し古い話ですが、中国の改革開放直後の1979年に 西安交通大学の招聘で約3ヶ月間、 計算溶接力学、破壊力学を講義しました。その頃は、大昔に日本人が憧れて留学した長安を忍ばせる素朴な家並みと歴史遺産が一目で分かる街でした。それが、いまや華中の重点都市として物凄い勢いで変貌し、私が始めて訪ねた頃の西安を探すのに苦労しました。多くの旧知の先生方の歓迎を受けました。会議の後 名山の一つ 華山に登ってきました。
平成19年(2007年)7月にポルトガル・リスボンへは、国際海洋・極地工学会(ISOPE)のJ S Chung賞を受賞しその記念講演をするために行きました。過去40年間の私の構造・溶接力学研究をComputational Mechanics という視点で捉えた論文になりました。講演論文の作成は大仕事でした。随分時間が掛かりましたが、頭と体の活性化に役立ちました。講演の後、船海の教室の先生の音頭でお祝い会を開いて慰労してくれました。この国際会議の後 自分自身へのご褒美として、スペインのアンダルシアを10日間旅行してきました。アルハンブラ宮殿もバルセロナの数多くの美術館も素晴しいでした。
平成19年(2007年)10月には かつての留学生でプサン大学の構造の教授である、白点基教授の招待を受け、プサン大学で講義をし、静かな古都慶州を観光しました。
平成21年9には中国・清華大学大学院生に1週間 “計算溶接力学”を村川教授、麻寧緒博士と分担して講義をしました。招待してくれた呉愛萍教授は私の研究室で約1年間研究した人です。藩 教授を始め旧知の先生方とは、研究を通じて交流も深かったので、多くの人が集まって盛大な歓迎会を開いてくれました。
その年11には 上海交通大学での国際会議に出席しました。その時に、日中の研究者や教え子たちが、親友の陳楚先生の八十歳(傘寿)と 私の77歳(喜寿)のお祝いの盛大なパーティーを開いてくれました。いただいた記念品と共に一生涯忘れがたい思い出の宴になりました。上海交通大学の羅宇教授(上田研出身)にも 面倒を見てもらいました。
ところで、精華大学に滞在中、阪大接合研の中田所長が、そして 上海交通大学では西本溶接学会長が偶々訪ねてきました。そして、それぞれの先生と会食した時に、2人が共通して言っていたことは “上田先生のように高齢になっても、後輩の先生方と一緒に外国で仕事が出来るのは幸せですね”ということでした。本当に 村川教授を始め多くの卒業生の心温まる配慮に支えられ幸福な時間を与えられていることに感謝しております
平成22年6月ハルピン工業大学で清華大学と同じように“計算溶接力学”を村川教授、麻寧緒博士と分担して講義をしました。中国で溶接工学科が始めて設立された大学で、中国の溶接工学関係の古老の先生たちの多くは、ここで 勉強しました。25年前に西安交通大学で一連の溶接力学の講義をした時の学生は中国全土から集められた30名ほどでした。その学生の中にハルピン工業大学からの2人もいました。 今は偉くなった 呉 林教授、 杜 善義 教授 の大学です。
その中で杜教授との再会は、西安以来31年振りでした。彼は複合材料の権威で中国科学院会員、中国全人代 代表です。彼は ”上田教授は私の生涯で最初の外国人教授で 初めて英語の授業を受けた。”と言っていました。 私の授業を受けた数年後に彼はアメリカへ留学したのでした。 31年前に数ヶ月一緒に勉強しただけで、極めて多忙な彼が わざわざ北京からハルピンに戻り私を歓迎し、”私の先生です。”と敬意を表し、翌朝は 私の帰国をホテルまで見送りに来てくれました。 私は彼に特別なことを教えたわけではありませんでしたが、私から”何か”を感じ、それをモチヴェーションにして研鑽したのでしょう。これが教育的出会いの大切な一面なのでしょうか。
時間が戻りますが、平成14年5月(2002)には 吉川元東大総長に続き日本人で二人目という名誉博士をノルウエー理工大学からいただきました。新しい数値構造解析法(ISUM)の展開と計算値溶接力学の構築に対する評価です。現在の船舶・海洋構造の世界の代表的研究所(CSOS)の所長であるMoan教授の推薦によるものです。帰国後、矢尾教授らがお祝いの会を開いてくれました。Moan教授の研究室へは、矢尾教授、藤久保教授、ラシェッド教授、片山博士ら上田研の出身者も研究留学しております。
これらの外国訪問は、 かつての卒業生、留学生、あるいは学術交流のあった人たちの心使いよるもので、そんな機会を与えてもらったことに感謝しております。
 
本の出版
阪大の退官から3年遅れの平成11年(1999年)3月に、退官記念として、それまでの溶接力学関連の英語の研究論文をまとめて、「Computational Welding Mechanics を出しました。
他方、阪大の退官前から書き始めた日本語の本『計算溶接力学』は、出来た原稿を出版社に持っていくと、もう少し易しい本にしないと売れないという回答があり、3度の書き直しを終え、平成19年10月に”技術者のための「溶接変形と残留応力」攻略マニュアル、CDプログラムで体験計算“(上田、村川、麻)として産報から出版しました。好評で第2版も出ました。
平成20年8月には上海交通大学の羅宇教授(元留学生)が、われわれの本“溶接変形と残留応力”の中国語訳を10月に出版しました。3000部印刷しましたが、今は売り切れて入手困難とのことです。
初出版から5年後の平成24年(2012年) 3月中旬に、世界的規模の科学技術の出版社: Elsevier Science and Engineering Publisher から「Welding Deformation and Residual Stress Prevention」を出版しました。ハードカヴァーの立派な本になりました。 価格は$136です。今年で私も八十歳、これが最後の学術的活動になることでしょう。
 
Pioneers Award
本の出版に関連した話ですが、ドイツのRadaj 教授が、世界の800の論文を調査して書いた本 ”Welding residual stresses and distortion” の英語版を2003年に出版しました。その最初のページに、
Dedicated to Yukio Ueda and John Goldak,
Pioneers of Computational welding mechanics
と書かれ、新しい計算溶接力学の開拓者と認知されています。1966年卒の山川武人博士と始めた未知の分野への挑戦を後輩たちと共に続け35年、その間この分野だけで200を超える研究論文を書きました。それによって多くの賞もいただきましたが, このような具体的な評価は、賞とは違う意義があり非常な喜びを感じております。多くの共同研究者に感謝しております。
平成23年11には、村川英一教授が提唱者して、2年毎に開催されている国際セミナー:Welding Science and Engineering の第4回が阪大接合研で開催されました。中国からの出席者を含め40名からの研究発表がありました。 私とともに 計算溶接力学の開拓者であるカナダのGoldak名誉教授が招待され特別講演を行いました。私が彼と顔を合わせるのは、これまでも数度しかなく15年ぶりの再会でした。これを記念して Pioneers Award Foundationを設立しました。第1回受賞者に中国の計算溶接力学のPioneer である 上海交通大学の汪教授に授与されました。彼も西安で行った私の講義の受講生でした。
 
くいだおれ
ご存知のように、上田研のたまり場 ”くいだおれ“が平成20年7月8日で閉店しました。
”くいだおれ“が開店したのは昭和24年だそうで、大阪生まれの私にとって、その当時の心斎橋筋、道頓堀が、異国にも似てキラキラと輝いていました。しかし、阿久悠 作詞の”青春のたまり場“のように、時間の流れは、人の生活スタイル、好みに変化を生み、そして街を変容させていきます。最近の十数年は “くいだおれ”の女将の柿木さんのご好意を受けて、ゆっくりと卒業生と語らい、多くの思い出を作らせていただきましたのに、その店が閉じたのは淋しい次第です。しかし、柿木さんも、会員として毎回上田研会に出席していただいております。
 
逝去
 私の退官記念パーティーでお祝辞をいただいた、当時の阪大総長 金森順次郎 先生が、平成24年11月13日に亡くなられました。享年82歳でした。先生と秘書と私の三人で、約10日間 国際学術交流を目的に、中国上海、西安、北京の大学をご一緒に訪問いたしました。そして、上海交通大学との大学間学術交流協定を締結いたしました。先生は、非常に博学でお話も上手で楽しい思い出に残る旅行でした。また、1996年(平成8年)上海交通大学の創立100年記念祝賀会には、金森先生が 学術交流協定大学関係者を代表されて祝辞を述べられました。私が溶接工学研究の所長の時に、文部省からの要請で接合科学研究所への改組・改称を行いましたが、金森総長には一方ならぬご尽力をいただきました。ご冥福をお祈りいたします。
いたって個人的な話しで恐縮ですが、私の母が平成17年12月6日に享年97歳で天寿を全うしました。1909年奈良の明日香村で生まれ、2005年大阪で死去しました。凡そ100年、丁度 20世紀を 丸々生きたことになります。これは 日本の近代化の歴史、そして戦争の歴史と重なります。石油ランプのかさの煤を磨いていた子供時代、村に電柱が立ち電線が張られ電灯が点いたときの驚きと喜びを語っていたものです。苦労の多い100年だったでしょう。老後は科学・技術の進歩の速さに、かえって不便を感じていたのではないかと思ったこともありました。人間はいつも未知の時間を生きていますので、いずれ失うことを予想していても、失って始めてその大切さに気付くこと、人は年齢を重ねることは分かっていても、その年齢にたどり着いてみないと見えない景色があることも分かってきました。
 
終わりに
時間の経つのは全く速いもので、私も満80歳になり平均寿命に達しました。今は余生でなく、余命を生きることになりました。そこで、これまで何をしたのであろうかと、考えることもあり、私の人生の舞台もそろそろ終わりに近づいていることに気付きます。
阪大時代に、忙しくて時間に追われていた頃がむしろ懐かしく、一幕の自分の人生で一番盛り上がった時期ではなかったかと思います。そして、その当時の教員、学生たちと情熱を燃やして一生懸命生きた時間があったことを幸運であったと思い、共に過ごした人たちに感謝しています。そして、自分としては、自分なりに精一杯生きられたと思っております。“I have done well.” です。
 
 私が半年毎に受ける血液検査では、特に異常も無く、いわゆる生活習慣病はありませんので、その点で悩まされることはありませんが、 体の部品の経年劣化は毎年進んでいます。退職以来、楽しんでいたゴルフも上手に成り切らないうちに、脊柱管狭窄症の影響で中止しました。絵画も個展の開催以来、上手な人の絵を見ると、腕の差が見えてきて、ちょっと休眠状態です。プロでもないのに味わう一つの壁です。現役中に経験し、乗り越えたいくつもの壁に比べれば、趣味の分野の低い次元の話です。若いときに、壁を乗り越えなければと思えたのは、壁の向こうの新しい世界の構築を想像し、自分が研究におけるプロだという自覚があったからでしょう。今は、年寄りの趣味なので、あと何年命があるかと思ってしまうと、集中力も忍耐力も至って低レベルになります。
この歳になって挑戦したのは、慢性胃炎の原因だったピロリ菌の除菌でした。これは成功して快適になりました。もう一つの脊柱管狭窄症も”やっつけよう“と思って、阪大病院へ行きした。病院長の吉川先生に診ていただきましたが、この歳で手術するほどではないので、血流を良くする薬を飲むようにという診断でした。お医者さんたちから80歳の老人をみると、”無理をしないで、昨日した事が今日できれば立派ですので“、といわれているようです。これから余生が、少しでも楽しくあるために、先ずは身体的不自由さを軽減することですので、知恵を絞って何とか故障と共生して行きたいと思っております。
 

post by S43 荻野