中国紀行 村川 英一(S48学部,S50修士)

2013年12月25日(水)
 私が阪大造船の修士を終了した1975年は日本の造船業に最も勢いが有り、世界の建造量に占める日本のシェアは50%を超えていました。これに対して韓国や中国のシェアは1%のオーダーに届くか届かないかという状況であり、日本とアジアの発展途上国との間には明らかな力の差が有りました。当然ながら、当時の日本には学ぶべきものが確かに存在しておりました。しかし、その後は世界的な経済の低迷の影響などで日本の建造量は減少の一途をたどる一方、韓国・中国の経済的発展は目覚しく、2000年には韓国に建造量で首位の座を明け渡し、2010には中国が首位に躍り出る状況となっています。このような状況は造船に限らず、家電や鉄鋼などさまざまな産業で同じように進行しています。幸いなことに、統計で見る限り1980年代後半以降、日本の建造量は増加を続け、2010 年の建造量は過去最大の2,017 万総トンを記録しています。長期にわたって苦戦を強いられている造船業が依然として20%を超えるシェアを維持している事実は造船に関係するものとして頼もしく思えます。とは言うものの、日本の産業や大学の相対的地位や求心力の低下は否定することができない現実です。その結果、最近では韓国やシンガポールからの留学生が減少し、インドネシア、マレーシア、バングラディシュなど発展の時期が遅れている国々からの留学生が増えているように思えます。

 転換期を迎えた日本の政府は何を考えているのかと思い、普段はほとんど縁が無い文部科学省のホームページを見ますと『グローバル化等に対応する人材力の強化のため、日本再興戦略及び第2期教育振興基本計画において、外国人留学生を14万人(2012年)から2020年までに30万人に倍増させることを目指し、これと併せて日本人留学生を6万人(2010年)も2020年までに倍増させることを目指しています』と書かれています。物事には、目的と手段がありますが、単純に割り切って考えると、この場合は『留学生倍増』が手段で、『人材力強化、日本再興、教育振興』が目的になるのでしょうか。手段には量と質の両面があり、まず量を倍にすることはひとつの前進でしょう。次に、考えなければならないのが質の問題であり、求めるべき質は目的が何であるのかによって決まります。そこで目的に注目すると、最終的な目的は『日本再興』であり『人材力強化、教育振興』は最終目標を達成するための要件として位置付けるべきものでしょうか。
 そのような理解の下で留学生受入れの意味あるいは目的を考えると、おおよそ
  ①発展途上国や後進国の人材育成を援助し、将来の産業および人的パートナーの形成、
  ②優秀な人材として留学生を国内で雇用(新しい血の導入)、
  ③留学生との交流を通して日本人学生の国際化、
  ④先進国も含めた本当の意味での学術交流
の4種類に分類されますが、ここでは①に絞り考えてみたいと思います。

 私が助手として大阪大学の溶接工学研究所(現在の接合科学研究所)に戻って来た当時(1985年頃)に教授の上田先生から与えられた仕事のひとつが、中国やインドなどから来られた先生方や留学生のお世話でした。私自身も留学していた折には、指導教授や日本人ポストドック、先輩の留学生にずいぶん助けて頂いたという経験があり、逆に日本から招聘教授として来られた先生方のお世話をさせて頂いたという経験がありましたので、何の抵抗感も無く、外国から大阪大学に来られた先生や学生をお世話させて頂きました。その経験は、今の私にとって非常に貴重な財産となっております。

 造船学科でも外国からの学生や研究者を受け入れ、その結果、多くの学生が学位を取り本国に帰り、今ではそれぞれ大学や政府機関の要職につかれていますので、発展途上国や後進国の人材育成については大きな成果が得られていると思います。次に大切なのは、将来の産業および人的パートナー形成です。そのためには、今までに送り出した卒業生との関係を継続することが必要です。一度交流が途絶えるとこれを再構築するのには余程の努力と時間を要します。日本で学位を取って本国に帰っても日本からの支援や日本との持続的な交流が無ければ優秀な人材も孤立無援状態となり枯れてしまいます。逆に日本の私達の状況を考えると、大学で造船や溶接の分野の研究に携わっている研究者の数は減少の一途をたどっています。研究成果は研究者の切磋琢磨から生まれますから、縮小する研究者集団の規模を保つという意味で海外の卒業生との連携はひとつの問題解決の道となります。


第1回WSEの開会式での上田幸雄名誉教授のスーピーチ
 

WSE2005(西安)での参加者一同の記念写真
 

WSE2013(威海)での参加者一同の記念写真
 
 
 そのようなことも考えて、名誉教授の上田幸雄先生と上田研究室で研究を共にした研究者や留学生が中心となり始まったのが、WSE (International Symposium on Welding Science and Engineering) です。第1回のWSEは中国の西安交通大学で2005年に開催されました。写真のように当時は学生も含めて参加者が50人程度の小さなシンポジウムでしたが、その後2年毎に、北京工業大学(2007年)、上海交通大学(2009年)、大阪大学(2011年)で開催され、第5回WSEに当たる今年は孔子の生地として知られる山東省の青島に近い威海(Weihai)にあるハルビン工業大学の分校で平成25年10月11日~14日に開催されました。参加者は約150名と増え、ポスターを含め97件の論文が発表されました。WSEは通常の国際シンポジウムとは少し異なり、歴代のChairmanは大阪大学で学位を取得した先生あるいは大阪大学での研究経験がある先生が担当し、今回はハルビン工業大学の威海分校の校長であるProf. Feng Ji Caiでした。
また、参加者の多くが日本留学の経験者であり、彼らのネットワーク形成の場となっている事も重要な特徴の一つです。今回は、私と麻招へい教授(H6博士)を含め接合研の教員4名、阪大船舶の学生が3名、大阪府立大学の柴原先生(H14博士)と学生が5名、企業から数名参加しましたが、日本勢が数の上で劣勢なのが現状です。

 威海でのシンポジウムの後、阪大造船で学位を取得し現在、重慶大学および重慶交通大学の教授を務める鄧徳安(Deng Dean)教授(H15博士)、梁偉(Liang Wei)教授(H17博士)夫妻から招かれ、初めて重慶を訪れました。海外出張の時はいつもそうなのですが、ともかく講演資料を取りまとめるのが精一杯で、訪問先の観光スポットはおろか地図上の位置さえ確かめる余裕も無く関空を立ちましたので、重慶も西安程度の距離だろうと考えていました。まず、シンポジウムが開かれた威海(Weihai)から3時間の道程をマイクロバスで青島空港まで移動し、飛行機に乗り込み座席のポケットに備えられている航空路線を確認しますと、重慶は西安からさらに西南方向に約600キロも離れていることが始めて分かりました。2時間半ほどの飛行の後、ほぼ定刻の夕方5時に着陸。空港では、鄧さんが出迎えてくれました。彼が親しい童(Tong)教授の運転する車で麻さんとともに市内にある重慶大学のホテルに向かいました。北京や上海の道路事情に慣らされている私には驚くほど車の流れがスムーズに感じられました。

しばらく走っている内に路面に引かれた車線のラインが鮮明で、ほとんどの車が車線を守りながら走っていることに気付きました。運転マナーは北京や上海と比較してずいぶん良く、高速道路などのインフラも予想に反して良く整備されていると言う印象でした。ホテルには30分ほどで到着。婦人の梁さんと中学生の息子の東々君が合流し、中国版フォンデュ(おかゆフォンデュ)を夕食に頂いて就寝。翌日から2日間は、重慶大学と重慶交通大学で麻さんとともに講演と講義を行いました。中国で講義をする時に常に感じることは学生の積極さです。特に麻さんが中国語で講義をする折には、学生に何か質問すると一斉に答えが返ってくるし、学生の方からの質問も非常に活発でした。


国家重大基礎研究「973」計画「高性能マグネシウム合金材料」
プロジェクト展示室(重慶大学)にて
 
 
 重慶では大学の先生や学生に暖かく迎えられましたが、この紀行を書くのにあたり、念のためネットを調べると重慶爆撃と言う記述が目にとまりました。日中戦争当時の1938年から1943年の間に日本軍により断続的に218回行われた重慶に対する爆撃のことです。この爆撃で多くの民間人が犠牲となったとも書かれていました。恥ずかしいことながら、私はこの事実を知りませんでした。梁先生と童先生は重慶出身であり鄧先生は武漢出身なので両親か、あるいは祖父母から当時の状況を聞かされているかもしれません。そのような彼らは私達日本人をどのように感じているのだろうかとふと思いましたが、私が今までに大学や学会で接したどの中国人も私達日本人に対して非常に好意的であったと思います。同じように私も、両親から戦時中の空襲の話を断片的に聞かされたことはありますが、その現実をわが身のものとして理解しているわけではありません。

 日本と中国、日本と米国では関係が異なりますが、私も1975年から約5年間を留学生としてまたポストドックとして米国のアトランタにあるジョージア州立工科大学で過ごしました。当時は日本も経済成長を遂げ、日常生活において日米の格差をほとんど感じることはありませんでした。しかし、鍵については事情が違いました。大学院学生であっても大学内の研究室があてがわれ、鍵が手渡されました。研究室は大部屋であって出入り自由が常識であった私はオートロックであることに気付かず鍵を部屋に残したままビルの外に出てしまったのです。運悪くクリスマスの休暇中であったため、学科のオフィスは閉まっており、キャンパスには誰も見当たらない状態でした。途方にくれながらビルの周辺を歩いている時に出くわしたのが腰に拳銃をぶら下げたパトロール中のキャンパスポリスでした。助かったと思い状況の説明を試みましたが、最初は問答無用といった様子で、不審者として危うく連行されそうになりました。
そのうちに私のたどたどしい英語と彼の南部なまりの英語が何とか通じ、私が日本から着いたばかりの留学生であり、彼が日本に駐留経験のある退役軍人であることが互いに理解でき、オートロックの問題は無事解決しました。この時、日米が戦った不幸な歴史が頭を一瞬よぎりましたが、終戦から30年を経てかつての敵国に自分が居り、かつての敵兵が目の前にいると言う実感はなく、南部なまりの職務に忠実な老人がいるという感じでした。まさに、私は戦争を知らない子供たちのひとりです。もしかすると現在の中国の若い世代も私と同じなのかも知れません。彼らは過去を歴史としては教わっているが、今現実に彼らの前に立っている人そのものを素直に見ているように思えます。だからこそ私達が、誠意をもって互いに付き合い、互いに尊敬し助け合える関係を地道に築いて行くことが今後の国際関係において大切だと感じます。

 北京や西安とは異なり重慶には特筆すべき名所はあまり有りませんが、大学での講演を終えた次の日は、鄧先生、童先生の案内で観光めぐりをしました。朝から車で出かけ、30分ほどの距離にある重慶市で一番標高が高い縉雲山に登り、山中にある民宿風の家の放し飼いの老犬や鶏が遊ぶ庭で昼食を頂きました。普通の観光旅行では体験できない素朴な中国の日常を体験することができました。夕方は、重慶大学から車で5分程度の所にあり、最近オープンしたばかりの日本風の大規模スパガーデンでお湯めぐりをさせて頂きました。改めて思い返すと、『重慶には温泉が沢山ありますから先生を是非案内しましょう』と大学院生のころ話していたその言葉を忘れずに鄧先生が今回の訪問で実現してくれたのでした。

   
縉雲山にたたずむ九重の塔
 
四川名物火鍋を囲んで
 
 
post by 事務局 東京02